千利休切腹の真相|豊臣秀吉との確執と大徳寺木像事件の謎を解く
天正19年2月13日、秀吉から堺への蟄居を命じられた利休は、淀川から船で京都を離れました。このとき、秀吉の勘気を恐れて誰も見送りに現れない中、命の危険を顧みず船着き場で見送ったのが「利休七哲」に数えられる高弟、細川忠興と古田織部の2人だけでした。
秀吉は当初、利休が詫びを入れれば罪を許す腹積もりであったとも伝えられています。しかし、利休は自らの正当性と美学を確信し、頭を下げることを一切拒絶しました。この妥協なき姿勢が秀吉の自尊心を決定的に傷つけ、2月26日、京都への召還と切腹の命令が下されます。
運命の天正19年2月28日、嵐が吹き荒れる中、京都・聚楽第北東にあった利休の屋敷(現在の京都市上京区・晴明神社付近)は、秀吉が差し向けた3,000人とも言われる兵に取り囲まれました。上杉景勝の軍勢が周囲を固める物々しい警戒の中、利休は愛弟子たちを集めて最後の茶会を催します。
茶会が終わると、利休は一服の茶を自ら点てて味わい、茶碗を打ち砕いた後、静かに切腹の座へと進みました。介錯を務めたのは、弟子の蒔田淡路守(一説には宮内卿)と伝えられています。享年70。武士ではない町衆の茶人でありながら、見事な作法で腹を十文字にかき切り、誇り高く命を絶ちました。