宮城まり子と吉行淳之介の真実とは?子供の有無やねむの木の現在を徹底解説
トップスターとして多忙を極めていた宮城まり子が、突如として福祉の道へ舵を切ったのは1960年代後半のことでした。海外取材で障害児教育の先進的な現場を目の当たりにした彼女は、当時の日本において肢体不自由児が十分な教育を受けられず、社会から隔絶されている現実に深い衝撃を受けます。行政の支援が追いつかないなら自らの手で作るしかないと決断し、1968年、私財を投げ打って静岡県小笠郡浜岡町(現・御前崎市)に日本初の私立肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を創設しました。
設立当初は芸能人の売名行為と揶揄されるなど、世間の風当たりは想像を絶するものでした。しかし彼女は一過性のチャリティに終わらせず、芸能活動のギャランティの大部分を学園の運営費へと充当。さらに、従来の機能訓練中心の療育とは根本的に異なる「感性教育(アート・音楽・文学)」を提唱しました。「子供たちには、まず優しい心を育てたい。絵を描くことは、生きている証」という信念のもと、子供たちの潜在能力を引き出していったのです。
1974年に自ら監督を務めた記録映画『ねむの木の詩』は国内外で大きな反響を呼び、1979年には悲願であった私立養護学校「ねむの木養護学校」の設立認可を勝ち取ります。園生たちが生み出す素朴で鮮烈な絵画は、ニューヨークやパリをはじめとする世界の美術館で展示され、障害者アートの地平を劇的に切り拓きました。