米ゼロの極寒でなぜ大名に?松前藩が生き残った「独自交易」と激動の真相
松前藩の経済発展の影で、先住民族であるアイヌとの関係は激しく悪化していきました。当初は対等な物々交換だった交易は、松前藩による独占が進むにつれて一方的な力関係へとシフトしていったためです。
藩士や和人商人は、アイヌに対して不当な交換レートを押し付けました。米の容器の底を厚くして実質的な米の量を減らしたり、干魚や毛皮を不当に買い叩いたりする行為が常態化。さらに、和人地と蝦夷地の境界に番所を置き、アイヌが自由に本州側と直接交渉できないよう厳重に遮断しました。
こうした積年の不満が頂点に達したのが、寛文9年(1669年)に勃発したシャクシャインの戦いです。日高地方のシブチャリ(現・新ひだか町静内)の首長シャクシャインは、対立していた他のアイヌ集団との内紛を乗り越え、全蝦夷地のアイヌに一斉蜂起を呼びかけました。和人の商船や番所が奇襲され、死者は和人側だけでも300人を超えたと記録されています。
松前藩は単独での鎮圧が不可能と判断し、幕府に救援を要請。幕府は東北諸藩に出兵を命じ、鉄砲を中心とする圧倒的な火力でアイヌ軍を追い詰めました。最終的に松前藩は「和睦交渉」と偽ってシャクシャインらを酒宴の席に招き、泥酔したところを急襲して謀殺するという非情な手段で乱を平定しました。この戦いを境に、アイヌの自立性は決定的に奪われ、松前藩への完全な服属を強いられる時代へと突入していったのです。