なぜ「日本」と名付けられたのか?国号の由来と改称の真相を徹底解明
では、具体的に「日本」という表記が法的に定められ、国際社会で公式に使われ始めた時期はいつなのでしょうか。文献史学および近年の考古学的な発掘調査により、その境界線は明確に絞り込まれています。
法制上、大宝律令(701年制定)において「日本」が正式な国号として定められたことは定説となっています。大宝律令の注釈書などによると、「儀制令」の中で使節や文書において「日本」を用いる規定が存在したことが確認されています。
そして翌年の大宝2年(702年)、粟田真人を代表とする第8次遣唐使が中国へ派遣されます。白村江の戦い以降、途絶えていた唐との本格的な国交再開の舞台において、彼らは自らを「倭国」ではなく「日本」の使節であると堂々と名乗りました。唐側の官僚が「なぜ名前を変えたのか」と問い質したのに対し、粟田真人らは見事な受け答えで新国号の正当性を認めさせたと記録されています。
近年の考古学調査でも、この時期の裏付けが相次いでいます。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡や藤原京跡からは、7世紀末から8世紀初頭のものと推定される「日本」の文字が書かれた木簡が複数出土しました。さらに、2004年に中国・西安で発見された日本人留学生「井真成(せいしんせい)」の墓誌(734年銘)には、「国号日本」と明確に刻まれており、8世紀前半には唐国内でも新国号が完全に認知されていた決定打となりました。