蘇我蝦夷と入鹿はなぜ滅ぼされたか?乙巳の変の真相と滅亡の決定打
蘇我氏の権力基盤は、蘇我稲目(いなめ)、蘇我馬子(うまこ)、蘇我蝦夷、そして蘇我入鹿へと受け継がれた直系4代にわたる外戚関係と独占体制によって築き上げられました。稲目が娘たちを天皇の妃として送り込んで以来、天皇家と蘇我氏は分かちがたい血縁関係を結び、馬子の時代には仏教の受容をめぐる物部氏との政争に勝利。推古天皇を擁立し、政治の実権を完全に掌握しました。
しかし、3代目の蝦夷、4代目の入鹿の代になると、その権力構造は天皇家との協調から「専権的な独占」へと変質していきました。蝦夷は私的に「紫冠」を息子の入鹿に授け、あたかも大臣(おおおみ)の地位を世襲するかのように振る舞いました。さらに、自らの祖廟を「大陵」「小陵」と呼んで国中の民衆を動員して造営するなど、天皇陵に匹敵する特権を誇示したのです。
決定打となったのは、皇位継承をめぐる強硬策でした。舒明天皇の崩御後、次の皇位をめぐって入鹿は自らの息のかかった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の擁立を企図します。その障害となったのが、人望を集めていた聖徳太子の長男・山背大兄王(やましろのおおえのおう)でした。入鹿は643年、斑鳩宮に軍勢を差し向け、山背大兄王とその一族を自害に追い込みました。
この暴挙は、蘇我氏と同盟関係にあった他の豪族たちに強烈な危機感を植え付けました。「次は自分たちが消される番ではないか」という恐怖が広がり、蘇我本宗家は朝廷内で急速に孤立。この政治的隙を見逃さなかったのが、皇位継承の正統性を主張する中大兄皇子と、旧来の神事氏族として影響力を失っていた中臣鎌足でした。