竹島の場所はどこ?隠岐からの距離や実効支配の真相【2026徹底解説】
竹島の場所はどこ?隠岐からの距離や実効支配の真相【2026徹底解説】とはどんな影響があるのか? 背景や要点を丁寧に紐解いて紹介します。
竹島をめぐる摩擦の本質を理解するには、近代以降の外交史を順序立てて整理する必要があります。竹島の領有権問題をわかりやすく紐解く鍵は、「1905年の閣議決定」と「1952年の李承晩ライン」という2つの決定的な出来事にあります。
江戸時代の初期、鳥取藩の大谷家と村川家は幕府公認の渡海免許を得て鬱陵島へ渡航しており、その中継地およびアシカ猟・アワビ漁の拠点として竹島(当時は松島と呼ばれていた)を平和的・継続的に利用していました。その後、明治時代の1905年1月28日、日本政府は他国による領有人為の痕跡がないことを確認した上で、無主地先占の法理に基づき閣議決定を実施。「竹島」と命名して島根県隠岐島庁の所管に組み入れ、近代国際法に合致する編入手続きを完了させました。
決定的な亀裂が生じたのは第二次世界大戦後のことです。1951年に署名されたサンフランシスコ平和条約において、日本が放棄すべき地域に竹島は含まれませんでした。条約起草過程で米国政府は「竹島は常に日本の管轄下にあった」と明確に認識していたことが外交文書で実証されています。
ところが平和条約発効直前の1952年1月18日、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領が国際法を無視して突如「海洋主権宣言」を発表し、いわゆる李承晩ラインを設定しました。公海上を勝手に遮断した韓国側は、ライン内に入った日本の漁船328隻を次々に拿捕し、3,929人もの日本人船員を抑留、死傷者44人を出すという苛烈な軍事的実力行使に出たのです。この一方的な武力行使によって、日本が平和的に利用していた島は強引に奪われる形となりました。