最後の女性天皇・後桜町天皇の真相|江戸の皇統を救った生涯と功績
後桜町天皇(幼名:智子内親王)が即位したのは、宝暦12年(1762年)のことでした。当時、宮廷は激動の渦中にありました。発端は、第116代・桃園天皇がわずか22歳の若さで急逝したことにあります。
桃園天皇の第一皇子である英仁親王(後の第118代・後桃園天皇)は、当時まだわずか5歳でした。江戸時代の朝幕関係は、徳川幕府が定めた『禁中並公家諸法度』によって厳格に統制されており、幼帝の即位は宮中儀礼の執行や政治的判断において摂関家や幕府との摩擦を生むリスクを孕んでいました。さらに直前には、尊王思想に傾倒した若手公卿が幕府によって処罰された「宝暦事件」の余波が冷めやらず、朝廷内部の秩序安定が至上命題となっていたのです。
こうした極限状態の中で、関白・近衛内前ら朝廷首脳部は、桃園天皇の同母姉であり、父・桜町天皇の薫陶を深く受けていた智子内親王の擁立を決定しました。満22歳(数え23歳)での即位は、甥である幼い英仁親王が無事に成人するまでの「中継ぎ」という明確な目的を持ったものでした。しかし、彼女は単なる形式的な君主ではなく、皇室の伝統儀礼を復興し、朝廷の品格を保ち続ける確固たる意思を持って玉座に就いたのです。